慶応高校・・・今更ですが優勝おめでとうございます&今までとまた違ったアプローチで旋風を巻き起こしましたね!
どうも、どうしたshimamotoです(^_-)-☆
先日ですね、こんな記事が目に留まったんですよ。高校野球の記事でしたけども・・・。高校野球のリーグ戦の記事ですね。
内容はですね、慶応高校がどうこういうのではないです。でも慶応高校も参加してまして、野球人口が激減する中で、各地で多くの指導者の方々が、工夫をしておるのがよくわかります。
以前も何度か書きましたが、競技のハイレベル化は、低年齢化・練習の効率化と長時間化がセットになって起きているわけですね。
ところがそれは逆に、一般的な子供たちの参入の障壁にもなります。幼少からお金と時間をかけない限りは勝てない、場合によっては試合にすら出られない。競技の本質は試合であるにも関わらず、練習に参加するだけの数年間。そんなんなるならほかのことしよか、となるのは当然やと思いますね。
強い子以外は価値がない。そんな価値観を幼少から植え付けることで選手たちにハードな練習をするよう仕向けて行く。それはミクロで見たときに選手が上達する一つの方法ではあるけれども、逆にマクロでみるとスポーツとしては枯れかねない毒でもあるということなんやろと思います。
ハードな練習や幼少からの練習が悪やいうとるわけやないです。そうではなく、強さそれだけが正義で、レベルを上げることだけを目指していると、いつの間にかみんな辞めとるよ、中途参入も無く他の道に行っとるよ、いうことですね。
アメリカではテニスからピックルボールにコートが奪われとるとか?それはピックルボールいう競技の面白さもさることながら、流行り始めのスポーツはレベル差が少なく誰もが参入しやすいいうのもおそらくは一因でしょう。
でもそれではイタチゴッコですからね。新しいスポーツが誕生するのはもちろん歓迎ですけども。
既存のスポーツも、もっとみんなが楽しめて、それで競技人口を増やしつつ、競技のレベルも上げていけないか?
この記事に書かれとる方々は、そんなことに挑戦しとるわけですね。
そしておそらくはそれは可能なんやろなと。
そのために最も重要なのは指導者の意識改革ではないですかね。
一例ですが・・・以前にも書いたことがありますけど、指導者が自分で考えろという割に、子供が自分で考えたプレイに対してダメ出しばかりする、いうのがあります。「自分で考えろ」いうわりに「ダメや」「あかんやろ」「違うやろ」。結局、正解は最初から決まっとる。考えろいうのが、単にコーチの意図をくみ取れというだけなんですね。だから強くはなるかも知れないが、楽しくはない。
そんな実質は上意下達の軍隊みたいなチームも、上位層は実績を残すでしょう。
でも、選手そのものはどれくらい残るでしょうか?
家庭の姿勢も同じです。親が子どもに勝たせようと練習時間をせっせと増やす。ハードな内容を課す。うまくはなるやろね、それはそこに時間や労力を割いとるわけやから。でももしそこに、子どもの意思がなかったどうでしょうか?
テニスでいえば、中学に入るタイミングで強い選手以外はガンガン辞めるようなスクールやコーチはホンマあかんと思います。そういったスクールやコーチは、選手を育てているわけやなく、人数がいれば一定の割合で必ず存在するちょっとした根性や才能のあ子たちが、力を発揮してくれただけいいますかね。
ホンマに育成力があるいうのは、強い選手も、そしてそうではない選手も、テニスを好きなまま続けられるいうことではないでしょうかね?
指導者の意識改革の一つとして、リンク先の記事から、阪長氏の言葉を一部引用します。
「自分は世界に野球を広める活動をしようとずっとやっていたんですけど、行けば行くほど、海外で学んだことをもっと日本に持って帰らなあかんのじゃないかなとずっと思うようになった。 ~中略~ 指導者と選手の関係性。海外で見ていると指導者と選手がすごいフラットというか、上下関係が無いのです」
タワシはこれにとても賛同するところがあり、これは競技人口にも直結しとるような気がするんですよ・・・。
皆様どうお考えになりますか?